無 題



しまじろう  投稿日:2004年 2月12日(木)00時31分30秒


今日は夕方から仕事があったので会社に近い飯綱高原スキー場。そのリフト券売り場で。
「1日券(ここは3千円)、お願い」
「シニアですか?」
「シニアって何歳からですか?」
「60歳からですよ」
「免許証とか見せるの?」
「いえ、いいですよ」
「・・・シニア(実は2千円)お願い・・・」
今日は快晴だった。雪の状態も良かった。だが、スキーはメンタルなスポーツだ。朝一番のこのやりとりがおれの心に影を落とした。そして全身の筋肉に、昨日まで知らなかった躊躇と疑心を吹き込んだ。 去年まで7年も遠ざかっていたスキーに今年、突如とりつかれて今日でもう10回目。だれにも迷惑はかけていないはずと自分に言い聞かせるのだが、まるでふた回りも若い女に突然入れ込んでいるような後ろめたさをぬぐいきれないでいる。 スポーツをそういくつも経験しているわけではないから断定的には言わないが、スキーをするときにどうしても向き合わざるをえない「勇気」というものに、シニアならぬ中年男はふだん最も遠い地平にいる。何かの選択を迫られたとき、中年男はおおむね、安逸、安楽、安定、安心のほうを選ぶ。だが、スキーにおいては、そうした精神の“後傾姿勢”こそ転倒のきっかけなのだ。 言い訳がましく前触れを書いたが、そう、今日は実に派手に何度も転び続けた。スキーが足から外れた斜面から10b近くを3回転しながら転げるというようなまろび方を、今日、シニア券を身につけていたスキーヤーの何人がやってみせたか。転びながら体のあちこちを打ちながら「ああ、まだ生きている」と思うことの新鮮さよ、ありがたさよ。 そのばかばかしいような実存がなぜ、ふた回りも若い女に突然入れ込んでいるような後ろめたさと似ているかといえば、それは等しく明日が見えないからだ。むろん貯蓄だってボランティアだって一般主婦だって芸人だって芸術家だって明日が見えないご時世だろうが、明日が見えない状況で奈落の底を前屈姿勢で覗き込む、その心構えがスキーなのです。口先だけの優しさなんてなにほどの腹の足しにも良心の証にもならないと承知しつつされつつ今の手を握り合うのが恋です。 なんちゅうことを思いつつ山を下り、ヘルメットを買いました。