永井彰先生リサイタル「佐久平賛歌」
プロフィールとご挨拶
1931年(昭6)丸子町(旧西内村)に生まれる。旧制中学2年生の夏終戦を迎える。(14才)日
本には今まで経験のなかった自由と文化が潮の如く流れ込んできた。それまで軍歌か村の獅子舞の
楽しか知らなかった者が、若さと憧れだけに誘われ、ピアノを猛練習し、群馬大学学芸学部音楽科
に入学、前橋で4年間を過した。1957年(昭32)卒業と共に野沢北高校(兼軽井沢高校)に赴任。
ここでの3年間の生活の感動が後の作曲の原点となった。その後上田高校に転勤。日頃から教壇で
見たこともない国の音楽を、知ったふりして教鞭をとっていることを、こそばゆく思っていた。そ
んな折、世界で初めてレコード化されたというショルティ指揮のワグナーの楽劇「ニーベルングの
指輪」全曲レコードを聴き圧倒される。ではこの目この耳で確認してみようと翌年(1970年)45日
間のヨーロッパ音楽視察旅行に出た。そこで見、聴きした西洋音楽は、歴史と文化に裏打ちされた
蓄積の分厚さに感嘆すると共に、音楽を聴きに集まった聴衆の態度の中に「音楽は誰の為に、何の
為にあるのか」を初めて教えられた。その一方歴訪7ケ国のどの国も、自国の民俗音楽を誇りに
し、享受していることを知った。それにひきかえ自分は自国、日本の音楽にはまったく無知無能な
音楽教師であることに気づき、大きなショックを受けた。以後、日本民俗音楽学会に入会、日本各
地の民俗音楽を探訪、録音、採譜、研究発表に奔走。又作他家小山清茂氏に師事、日本音楽の作曲
法を学ぶ。師の評価を得た作品の発表、楽譜出版、CDのリリース等を通して、日本の音楽の
identity(独自性)は、日本語の抑揚の旋律化から生まれるpentatonic(5音々階)であることを
実証(実感)することができた。明治の教育改革以来日本の音楽、ないし音楽教育はこの最も大切
な点を軽視し西洋のdiatonic(7音々階)偏重に傾いていってしまった。結果日本は大衆音楽と、
クラシック音楽の二重構造の現象を生み「学校唱歌校門を出ず」の諺まで生んでしまった。残念な
ことである。然し今からでも遅くはない。あの輝かしい西洋音楽は、母国語の上に、歴史と習慣と
敬虔なる宗教のバックボーンに支えられている。日本に於いても民俗音楽や伝統音楽に素材を求
め、そこに現代風なエネルギーを注入し、新しい音楽を創造することが求められる。教育では井沢
修二氏が考えたような「異なる洋の東西音楽の長所短所を融和し、折衷音楽を作り教材とする」の
ではなく。現在の言語教育方式と同じように、幼、小時代はもっぱら日本の民俗音楽教材を与え、
成長するに伴い、そこに他民族音楽の学習も重ねていく「接木方式」又は時のずれた「並列方式」
が正しいのだ。
現在 日本作曲家協議会会員、国際芸術連盟作曲家会員、作曲集団「たにしの会」
会員、長野県上田市在住。
小生はこの逆方向から音楽を学んでしまったが、西洋音楽を学ばなかったら現在の自分はなかった
し、ましてや作曲などはできなかったと思っている。 今回は佐久平の自然の美しさ、又文化
や人情の豊かさを歌った「佐久平讃歌」を発表する。幸にもすばらしい演奏家や演奏団体のご出演
を頂き、又佐久市、臼田町をはじめ、各種音楽団体、放送局、新聞社のご後援、地元の多くの方々
の人的ご支援を得て開催されることに心より感謝している。音楽に捧げた人生の最後に到達した
「日本音階による旋律に日本和声をつけて作曲した、邦楽器と声楽による作品」をご鑑賞下さい。
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